AIJシェル空間構造設計技術レビュー連絡会NEWS
  第32号 2003.6.13..

「建築法制研究会」第3回会合5/22
「建築法制研究会」の第3回会合は、構造設計小委の会合の前日5月22日(木)午後に開かれました。出席者は5名でした。3名の方がそれぞれ重要な所用と重なり残念ながら欠席でした。
建築基準法令の見直しに関する建築業協会(BCS)・日本建築構造技術者協会(JSCA)の提言も出てその動向には大いに注目しますが、先ずは基本的な考え方を整理して地道な活動を続けます。
専攻建築士の話題では、士会連合会とJSCAとの思惑違いやすり合わせのご苦労を伺って、理解が深まりました。構造専攻は専門医制度に漢方医が入ったようなもの、との比喩が意外にウケました。
建築紛争裁判の証人調べを初めて傍聴して、建築基本法の枠組みを考えて行く上での貴重な原体験になった、との真柄栄毅氏の発言から、建築紛争裁判の問題点も議論されました。
次回会合は、6月20日(金)午後の開催です。基本的には出入り自由、幅広く意見交換・情報交換し、互いに足を引っ張り合わない、という暗黙ルールで、気軽に議論に参加しませんか。

建築基準法令見直しのJSCA会長提言と検討WG案とを読み比べ
5月22日の「建築法制研究会」第3回会合で入手した木原WGの提言案と、業界紙報道の大越会長名の提言とを、後日読み比べました。両者の間に、何か強い異物感のようなものを覚えたことを率直に申し上げます。皆様はいかがお感じになりましたでしょうか。
このことをぼやいてメンバーに伝えましたところ、6月6日(金)のJSCA総会に出て質問してみればとけしかけられました。生憎と言うか、都合よくと言うか、この日は4年次学生のRC構造設計の全体講評会にぶつかっていて、総会出席のお誘いはやんわり辞退させていただきました。
このお誘い話を切っ掛けに、昨年の総会の当日6月13日(木)の午後をまざまざと思い出しました。建築基準法改定の問題を国会質疑された斉藤鉄夫議員との面会が叶って、多田英之先生にくっついて行った後に、全員で総会会場の東京ドームホテルに向かったのでした。この日のことが、その後のさまざまな行き掛かりの先ずは始まりだったようです。

木村俊彦著「構造設計とは」1991 より抜き書き
木村俊彦著「構造設計とは」(彰国社1991)の一節「2.6構造設計の責任(1974)」を読みました。以前は読み飛ばしていたことが今回は殊更に新鮮に感じました。以下に抜き書きさせていただきます。

自由と責任(p.130) 現代の日本においては、結論としては"憲法に立脚し保障された国民の自由"に応える義務が"国民の法的な責任"であり、これは国民すべてにかかっている。すなわち、
憲法第12条「自由、権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任」 この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。
はそのことを明示している。すなわち、自由と権利は努力によって保持すべきものであって、その自由を利用し、「自由な行為によって、公共の福祉を守り増進するべき義務」を全うすることが、責任の真意である。また、自由と権利を保障された「国民としての信頼に応える義務」が、憲法でいう"責任"の積極的、能動的な定義と言えるであろう。

法的責任(p.132) 憲法でいう責任とは、先に述べたごとく、ずっと建設的で、自由と権利を保持し、その濫用を避け、公共の福祉にこれを利用することを主旨としている。この能動的責任から見れば、自由と権利を守りもせず利用もしない(何もしない)ことは、公共の資産を徒費するだけで、責任に反することになる。つまり、怠慢も無責任で非難の対象になるだろうし、敷延すれば、怠慢の蓄積による無能も、無責任ということになろう。また、具体的な結果を結果を伴う行為を対象とした職種のみが、「結果が実証的に判断できる」という理由で、業務上の刑法的制裁の可能性を持つことにも、若干の疑問が残るだろう。
設計者の責任(p.134) 設計者の責任は、(1)設計という職能的専門分野の中で、自らの自由と権利(公共の信頼と地位)を自らの努力によって保持し(職能の保持)、(2)その職能的自由と権利を濫用することなく、公共の福祉のために十分に利用(活用)して公共の信頼に応えること(職務の遂行)
であると言えよう。
木村俊彦先生は建築基準法・建築士法が成立したその年の1950年に大学を出られました。言葉を大事にして論じたこの論旨に感じ入りました。今から30年前これだけ明快に論じ尽くしていたにもかかわらず、その専門職能は無残な姿のままです。今後さらに踏みにじられる気配ありです。
憲法の教え「自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」を守らなかった報いを、今は受け入れるしかないのでしょうか。諦観による安心がよろしいですか。

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