平成17年11月28

(平成18年12月15日追記)

 

建築制度のあり方につい

(日弁連議論との対比を通じて

 

弁護士  竹川忠芳 

 

 

1、日弁連の人権擁護大会シンポジウムの第3分科会が、平成17年11月10日、鳥取県立県民文化会館小ホールにて「日本の住宅の安全性は確保されたか−阪神・淡路大震災10年後の検討−」との題名の下に開催された。

同分科会は午後12時30分に開会が宣せられ、欠陥住宅の被害実態については映像等を用いた報告がされた後、阪神・淡路大震災後10年間を検証する「基調報告」やら、松本克美立命館大学教授の「講演」、そして、パネルディスカッションなどが行なわれ、終了したのが午後6時ということで、実に長時間にわたり、熱心に、しかも盛り沢山の内容の議論がされた。

 

2、そこで、議論された骨子を簡単に紹介してみたいと思う。

平成7年(1995年)1月17日の阪神・淡路大震災の発生から10年が経過したわけだが、この間に、国民の側においては住宅の安全性を重視するような意識変化の生じてきたことを積極的に評価していた点が指摘できる。そして、この10年間の法律制度の改正(建基法改正やら品確法制定など)についても積極的な評価を加えると共に、判例理論が発展・進化していることの指摘や、建築士の責任が厳しく問われるようになった点についても、これを積極的に評価したシンポとなっていた。

そして、今後は、この10年を踏まえて、「更なる法整備と施策の必要性」が認められるとして、@住宅安全基本法の制定、A建築士制度の改革、工事監理の内容の法定と工事監理者の権限強化(登録監理建築士制度の創設)、B建築確認とその検査制度の改善・充実等、C耐震基準を満たさない建物の耐震改修推進策の立案がはかられるべきであるとの非常に多岐にわたる議論が展開された。

なお、シンポでは余り議論されなかったが、当日配布された資料によると、他にも、D悪質リフォーム被害、シックハウス被害等の予防と救済に役立つ制度的整備や、E法による被害救済の更なる充実・徹底や、F消費者に対する情報の提供・開示・説明義務の徹底などについても、今後積極的に施策を講ずべきとの提案がされたのであった。

 

3、ところで、この10年間を手放しで積極的に評価することができるか、私は少し疑問がある。ましてや@〜Fの今後の指針については、余りに重大な問題が余りにも一方的に、しかも、建築生産の実態を無視した議論が積み重ねられ、結論が導かれているように思われ、少し危険すぎるようにさえ感じられた。

そこで、これらの点を以下に検討してみたいと思う。なお、議論をするにあたり、上記主張を「日弁連議論」と略称する。

 

4、まず、住宅生産の現場をどうみるかについて、日弁連議論は余りに硬直的な見方となっているようで、少し心配である。

例えば、日弁連議論は簡単に要約すると、@住宅生産現場を、作る側と作られる側(設計・施工・監理をする側と消費者たる施主側)の二極対立構造としてとらえている点や、A行政が、これら二極構造の中で、公正な第三者の役割を果たすと期待している点に特徴がある。

このような日弁連議論の見方に立てば、自ずと@の点では欠陥住宅が発生する原因を、加害者対被害者の二極構造の中でとらえてしまうことになる。言い換えれば、加害者である作る側が「一方的に欠陥建物を建築してしまう」ことを防止する必要があると考え、その防止策としてチェックアンドバランスの考え方を持ち込むことになったのではないかと推測される。だからこそ、設計と施工と監理とを、権力機構の三権分立になぞらえて、それぞれ分離して、各業務の担当者がそれぞれの立場からチェックし合う方が、間違いのない、欠陥のない建物が建築されると主張することになったのではなかろうか。

そして、この考えをより徹底すると、設計と施工の完全分離、さらには、登録監理建築士制度の創設といった提言にまで至ったのではなかろうか。

また、Aのように、行政に対し過剰な期待を抱けば、自ずと行政の検査の強権化をはかる方がよいとの結論に行き着くことになり、例えば、建築確認の中間検査制度の実効性をはかるとか、その他の機関による幾重もの検査の必要性を認めることになるのは必然であろう。また、既存不適格建物の耐震改修を行政が強制すると共に、その財政的援助を行なうようはかっていくとの結論に至るのも同様であろう。

 

5、しかし、実際の住宅生産の現場は、もっと複雑多岐である。ましてや、建設される建物は住宅のみならずオフィスビルやらマンションやら多種多彩である。それら建築物の全てに、日弁連議論の考え方を押し及ぼすことは、余りに実態無視に陥りかねない。

また、現実的にみたとき、建物の建設というのは、施主の手足となって設計を行ない、施工を行ない、完璧を期すために監理が行なわれ、互いに協力し合って良い建物を創出しようとするものと見ることが出来る。決して、施主は一方的に作られる立場にあるわけではなく、むしろ、これら設計・施工・監理を主導すべき立場にあるとさえ言える。

その意味では、まずもって重要な立場にいるのは施主であり、施主が消費者として余りに建築の知識等に欠けている点にこそ問題が潜んでいることに目を向ける必要がある。

そこで、今後の方針として一番重大な点は、消費者の建築教育にあると言える。私も、何度かスウェーデンの建築事情を見学しに行ったことがあるが、同国では、小さい頃から建築に関する教育が行なわれている。そのため、日曜大工などはお手のものであり、施工する側でも、初歩的ミスは施主の目が光っていることから難しいし、戸建住宅やマンションの販売にあたっても、仕様の説明より、建物の機能性の説明が重視され、建物の見えない部分への購入者の関心は高い。ドイツでも、住宅展示場では、例えばトイレを半完成状態で配管が見えるようにして、水回りの修理が容易かどうかを見せるのが普通である。ところが、日本では、マンション販売のパンフレットでは、豪華な家具が並び、売り物でもない豪華な調度品ばかりが広告の写真に撮られている。そして、どうせ数年で陳腐化する設備類の付いていることが「売り文句」とさえされている。まさに、重要なのは消費者教育にあると言えるのではなかろうか。

 

6、次に、「設計」というものを考えたとき、予め施主の考えるところを細部にわたって全て図面化することは不可能である。例えば、壁の色や素材を図面に正確には書き込めないし、部材の納まりを全て図面にすることも不可能である。これらは、施工途上で設計者が施工者に指示したり、あるいは監理業務の一つとして補正していく作業が行なわれる。つまり、設計図面が出来上がると、そのとおりに全ての施工が出来るわけでもなければ、設計図面のみを頼りに全ての監理が出来るわけでもない。言い換えれば、「設計」と「施工」と「監理」が全く別々に明確に区切れるもので、それぞれ独立にチェックし合う関係にある、というわけではないのが実態である。

その意味では、国家機関の三権分立の思想が、もともと行政権力の横暴を押えるために議会(立法)と裁判所(司法)を作って抑制しようとしたものであるのに対し、建築現場はそれぞれが明確に区分できるわけではないうえに、むしろ互いに協力し合う関係にあると言える。従って、三権分立の思想をそのまま適用することにはもともと無理がある。つまり、建築現場の実態は、施工会社が元々強い権力を行使して、施主として一方的に抑圧されてどうにもならない関係にあるから、設計や監理により、これを正していくべしというあり方でないことは、正しく認識しておく必要があろう。

そして、仮に日弁連議論のようなことを本気で実践したら、良い建物を作るどころか、手かせ足かせになるだけで、良い建物の建築のためにはマイナスにさえなりかねないと言えよう。

 

7、むしろ、建築に素人の施主が、その希望する建物をいかに設計して施工するか、これを手伝って完成させるのが設計・施工・監理の制度と言える。その意味では、設計と施工を一つの会社に行わせることが合理的な場合もあれば、別々にした方がよい場合など、各事例に応じて千差万別とも言える。問題は、施主側にあり、正しく選択するだけの知恵を備える必要があろう。

そして、「設計」「施工」「監理」の分離を画一的に制度化する方法が有用なのではなく、むしろ、欠陥を発生させた場合の責任の取り方について議論することで、その抑制策を考えた方が効率がよいのではなかろうか。例えば、スウェーデンでは、開発のうえ住宅街を建設していた大手ゼネコンが、一戸建住宅を建設する過程で、ある建築途上の建物にカビの発生が確認されたところ、新聞の一面トップ記事となり、他の建物も全て建て直しを求められたとのことである。

それ位の厳しい責任のとり方をする方が、国民の理解を求められ、結果として「良い建物」が建築されていくのではないだろうか。

 

8、次に、行政の建築確認の制度に過度に期待して、これを検査機関として活用しようとするのは危険なことである。

もともと、建築確認の制度は「許可」ではなく、法令に適合することを「確認」するだけの制度にすぎない。

仮に、法令に違反する施工がされたりしても、確認機関が責任を負う制度ではない。また、確認の対象も限られたものでしかなく、建物の全てを予め検討するわけでもない。従って、中間検査の制度についても、端的に言って、行政側で見たいときに見たいところだけを見て、是正させるよう指摘するだけで、瑕疵のない建物が建築されるという保証は何もない。

つまり、中間検査を充実させたところで、欠陥住宅が無くなるわけではなく、むしろ、行政が民間の施工現場へ口出し出来る口実を与えることになるだけでしかない。このような危険なことを押し進める必要はないと言える。

しかも、行政側には正確な建築・施工に関する経験や、経験にもとづく技術知識に乏しく、行政側のチェックに多くは期待できないのも事実である。

 

9、また、日弁連議論では、登録監理建築士制度を創出しようとの主張が見られるが、これは監理の言葉を誤解するもので、登録監理建築士の実質はアメリカのインスペクター制度の亜流であり、「監理」と「検査」とを誤用していると言わざるを得ない。しかも、登録監理建築士の制度を作れば、大手ハウスメーカー等が自社子飼いの登録監理建築士を多数作り上げ、事実上監理が形骸化してしまうことになるのは目に見えていることである。つまり、イタチごっこに終わるのが関の山であろう。

また、このような「検査」については、わざわざ登録監理建築士制度を作らなくとも、現行法でも品確法が存在しており、建設性能評価住宅にあっては「検査」が義務づけられている。この制度の活用を考えるほうが早道と考えるし、監理と検査を混同して議論することの弊害の方が大きいと考える。

 

10、最後に、日弁連議論では、住宅安全基本法を作る旨を主張しているので、一言触れておきたい。国交省が住宅基本法を作ろうというのは、昭和41年に制定された住宅建設基本法が、時代のニーズを余りに無視して、このまま維持し得ない現状に鑑みて、これを廃止せざるを得なくなってきたが、これを廃止するだけでは省益の確保が出来ないとの考えから、住宅基本法なる得体の知れない法律を作ろうとするものである。

つまり、住宅基本法自体が住宅建設のための有用な法律であるか否かをまず検討する必要のあるところ、全くこれを行なった形跡がない。にもかかわらず、この法律の制定をそのまま受け入れてしまい、同法を前提にして、安全性を国に促進させようとするもので、これまた危険な思想と言える。

もともと「安全」という概念の中に、絶対的「安全」はあり得ない。けだし、相手が自然であるから、何が起こるかは予想の限りでなく、起こりうることの全てに対処することは不可能だからである。そこで、どの程度の外力に対してどの程度の「安全」とするかといった政策判断が必要となる。ところが、日弁連議論は、これを一律に国に一任しようとする考えであって、これは、全体主義的国家の発想と言える。

むしろ、安全確保のためにどの程度の施工費をかけるか、国民がどの程度に建物の安全度をはかるか、そのための費用を出すかという、費用と安全度との相関関係の中での選択といえる。例えば、ある国民はいくら費用がかかっても構わないので、震度8くらいの地震でも壊れない建物を建てたいと思うのに対し、ある国民は費用対効果を考えたら震度4〜5程度の備えで十分であると考える場合もある。そして、火災に対する「安全」についても全く同様である。(但し、延焼などの近隣への被害の拡大防止策については、法的規制を行なうことに反対はしない。)。

このように、国が一律に規制していくべき問題ではなく、各人にまかせると共に、消費者教育の徹底をはかっていくことで解決すべき問題と言える。

 

11、このように、日弁連議論は「住宅生産の現場をどう見るか」について二極対立構造で見ようとしたり、行政への過度の寄りかかりの姿勢をみせている点で、私は賛成できない。

だからと言って、現状に問題がなく、全く改革の必要がないと言っているのではない。現に欠陥住宅が出来上がり、悪質な業者が存在することも事実である。ただ問題は、悪質業者を締め上げることにのみ着目して、そのための制度改革へと走り、その結果、本当に心ある業者までダメにしてしまったら元も子もなくなってしまう。このことを心配しているわけである。

このような観点から考えたとき、日弁連議論のうち、個別の改革案については拝聴すべき議論もあると思うので、この点に、以下で触れておきたいと思う。

例えば、建築士制度の改革である。実際に設計を担当するはずの建築士が90万人もいるというのは異常に多い数字であり、しかも、職能としての高い専門性が期待される資格にもかかわらず、実務経験や熟練度について無審査というのでは、明らかに片手落ちと非難されてもやむを得ないところである。この点では、日弁連議論の方向性自体は評価できると言えよう。

「施工」については、施工業界の重層下請構造の改革が必要となろう。

そして、消費者教育の徹底と、請負・売買契約の締結内容の充実(例えば、品確法での契約締結)が目ざされるべきである。

このように「より良い建物」を作っていく作業をするには、@「設計」「施工」「監理」がうまく機能するようにすること、また、A施主(購入者)側の建築知識の底上げと、それでも補えない場合のための予防策や対応策を講じること、そして、B故意の手抜き工事、あるいは重大な欠陥を伴う建物にあっては、全てを作り直させるか、作り直さなくてよい立証を業者側に課するといった制裁手段の制定、さらにはC保険制度により、業者側の倒産等に備えることなどが必要と考える。

結局、次から次へと監督(検査)機関を新設することで、第三者機関が欠陥や瑕疵を発見してくれる(防止してくれる)のではないかという甘い考えは捨てて、建築に関わる者達の創意工夫をより良く引き出す仕組みを作り出す必要があると考える。

 

(追記)

人権大会の報告文を書いた後、平成17年11月18日付の朝刊各紙で、ある設計事務所が構造計算書を偽造(あるいは偽装)して建築確認の申請をしたところ、民間の指定確認検査機関が不注意にもこれを見過して確認を下ろしてしまったという事件が報道された。その後の報道をみると、各自治体の建築主事も同様の過ちを犯していたことがわかってきた。

はからずも、私が指摘したように、建築確認の制度をより充実しようとしてみたり、第三者機関にさらにチェックさせるという屋上屋を架するやり方は、根本的に誤りであることが分かってきたのではなかろうか。多くの者達が関与すればする程、責任の所在が曖昧になり、互いに相手に頼って大きな誤りを犯すのが普通だからである。

むしろ、建物の建築と維持・管理に誰が責任を負うのか、その責任者の下にどのような政策をとれば「良い建物」が出来るのかを検討すべきであろう。その一つの方向性として、私は前述した@〜Cを検討してはどうかと考え、書いたのがこの論文である。その旨を補足しておく。

 

(平成18年12月15日追記)

現行制度下で想定していた「施主」というのは、自己使用目的で建物を建築する者という程度の認識だったのではなかろうか。このような施主であれば、当然に「良い建物」を建てたいと意欲しているはずであり、それを補う意味で、資格ある建築士による設計・監理と、免許ある建設業者の施工がされるなら、必ずや「良い建物」が出来上がるはずと考えたのではなかろうか。

ところが、高度成長期を経て、デベロッパーやハウスメーカー、建築コンサルタントなどの職種が生まれ、自己使用のために建物を建築するのではなく、あたかも建物を商品であるかのように、消費者に売却するためだけに「建物」を建てる者が出てきたわけである。このような「施主」は必ずしも「良い建物」を建てたいと意欲しているわけではない。儲かる建物を作りたいと考えるのが自然であり、原価を出来る限り押さえて利幅を多くしたいと考えるのが普通である。この儲け主義が行き過ぎれば、手抜き工事や品質の悪い建物が出来て来るが、施主がそれを望んでいるため、誰もこれを止めることはできなくなる。

ここに至って、現行法では想定していない問題が発生してしまったと言える。

そこで、今後は、このような新しい「施主」についての法的規制を正面から定める必要があろう。是非とも、今後の建築制度を考えるうえで、法制化の柱の一つにこれを加えるべきであると考える。

以 上

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